ある夏の盛りの出来事である。
野田玉川の背赤(セアカ)の牛が、阿彌陀堂の庭先に入り、ヘナヘナと座り込んだという。牛は痛ましいほどの弱りようで、気息えんえん、目に涙さえ浮かべているではないか。
牛の背に、塩の空叺(カラカマス)をつけたままの、その哀れな姿を見て、山岸村の人々は、奇妙なこともあるものだと思い思いに語り合っていた。
たまたま居合わせた寓円(グエン)和尚〈千手院五代・約200年前〉も庭に降りてきた。
その時である。血相を変えた牛方清右エ門、棒を片手に駆け込んできた。まさに殴り込みのようである。
「この野郎!ここにいたか、ぶっ殺してやる!」
何とも手荒な、物騒なことをするものよ。しかもだ、よりによってこの寺庭で!、と思った寓円和尚、心して物静かに問いかけ、そのわけを尋ねた次第である。まだ抜けない怒りのままに牛方は語る。
「この背赤(牛の名前)よ!藪川大志田のあたりからほかのベコより疲れが見えたもんで・・・、気にしながら通ってきたわけだが、何しろベコはこの暑さだもの、少しの水泥にも座りたがるもんだし、その場所声がけをしながら通ってきたんだ。ところがな、大志田からこっちは川の岸だ。なんとも大変なんだ。
あと一息で川権(塩宿のこと)(油町)に着くというのに、この背赤、ばかになってショコショコと川に入ったんだ。俺がいくら追ってもどなっても、何もきかん。そしたら、ほかのベコたちまでドドドドッと中津川さ入り込んだんだ。大変だあ。塩は水にすぐ溶けるもんだもの。しかも1匹だけでない、7匹も手一杯に、習いベコッ子も伴れてこなければよいのに、伴れてしまって。ただただ川から追い上げようとしても、思うようにならないし、俺は追い散らかしてしまったんだ。この背赤が川に入らなければこんなことにならなかったと思ったらしゃくにさわって、腹立って、俺は大いに苛めてやったんだ。そしたらこいつがダウダウとこっちに逃げてきたんだ。川権(塩宿)からの前借りも返せなくなってしまった。ほんとうに、ただ殺しても足りないぐらいだ。玉川から七泊して、今日で八日目だ。今までこんな目に遭ったことがない。人の話には聞いたことがあったけど・・・・・・。」
牛の首根は、低く垂れて土に着いたままであったし、口籠(クツカゴ)をつけたままの背赤の目は閉じたきりであった。
寓円和尚は、牛方清右エ門の怒りが、次第に和らいでいくのが判る。この清右エ門の失態は、牛の習性を知り尽くし、牛を信頼し、牛と共に野宿までするプロにも、時としてあるということだ。だから牛方筋を唄いながらの悠長な道中に見えながらも、実は道の要所に気を配り、牛の強弱とその性質を、気候の変化似合わせての日程を、そんな後手にはまわせない渡世の知恵を、牛方は身につけていなくてはならない。この牛方の怒りたいわけや、その仕打ちも、寓円和尚には痛々しいほど判るのだ。
しかし仏に仕える身として、これを是とするわけにはいかない。第一わが寺庭での事件である。牛を痛めつけて溶けた塩が戻ってくるものか。牛を苛める理由が成立しないことを、早く語らねばならない。集まった村人にも、和尚が収集する見せ場を作らねばならない。そんな想いが、フッと胸をよぎる。
寓円和尚は、時を待った。清右エ門の雄弁が途切れるのを。・・・・・・そして清右エ門に抗弁のスキを与えるまいと、心配りをしながら語りかけるのであった。
それは、牛に何の罪もないこと。どんな牛方のプロでも、時には追い方の誤りがあり、牛方家業にも無限の修行があるということ。過ぎた誤りを責めるより、前向きな渡世を求めるべきこと。弱いもの苛めより、大きな仏陀の愛と憐慰をと、じゅんじゅんと説教するのであった。寓円和尚の説教は、いものように静言で堂に入ったものであった。和尚も自らの説教には酔うほどであった。
牛方清右エ門の頭は、しだいに垂れに垂れていった。その頑丈そのものの身軅も、しだいに小さく、小さくなっていくのが、和尚に判る。
目を閉じたままの背赤は、思い出したように荒い息をする。生きてはいるが、あまりの弱りようだ。“逝くな!”と和尚は思ったら、合掌していた。意識したわけではない。こんな場合における仏者仏心の本態なのである。
牛方清右エ門は、自分の体が次第に小さくなって、しまいにはどうなるのかと思った。出来ることなら消えてなくなりたい気持ちであった。
気がついてみると、清右エ門の汚れた左の手の甲では、あふれ出る涙を拭い、右手では、背赤の波打つ背中を撫でているではないか。そして、憐れみを乞いながら、もうだめだ!お許しください!、と主人に頼み込んでいる背赤の姿態が、牛方清右エ門の潤んだおぼろ涙の中に確かに見えてくるではないか。
清右エ門は、背赤のなんとも物悲しい顔筋から、背中をさする。そして尻のあたりまで、何度も何度も撫でて、その手を休めなかった。
清右エ門は、はじめ何か口の中でつぶやいていた。やたらに出る涙をでまかせにして、今度は両手で背赤を撫で始めるのであった。
「許してくれ、許してくれ、背赤や!・・・・・・これ!俺が悪かったなあ、俺が悪かったものなあ。お前が死ぬなんて。お前に罪があったというのか、いやお前の罪などない、ない!俺の追い方が悪かったんだ。こんなに暑い日だ、水に入って当たり前だろうになあ。苛めなければ良かったのになあ。俺あ謝る。許してくれ、これ、この通りだ。」
清右エ門の涙声は、次第に大きくなっていく。しれが次第にうめきに変わっていく。やがて、オーン、オーンと号泣するに至っては、和尚も、村人もただ事態を見守るだけであった。
清右エ門の号泣は、長くは続かなかった。しだいに低く、次第に明瞭に、
「ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ・・・・・・。」
と念仏に変わっていったのである。
寓円和尚も一段と声を整え、合掌の数珠に息を吹きかけるように唱和し始めた。
あたりにいた村人たちも唱和しだした。背赤の荒い呼吸は、今か今かと待っていても、再び盛り返すことがなかったのである。
阿彌陀堂は今、所をかえて鉈屋街の本寺千手院に七、八年前移管され、山岸にない。
牛方清右エ門は、寓円和尚の説教によって、篤信し、尺五寸、南蛮鉄、十二貫の重量を持つ撫ベコを、千手院に寄進するのである。作者は盛岡の名工「なべ善九郎」こと藤田善九郎である。
今この撫ベコは、名のごとく多くの人に撫で愛され、親しまれ、渋い黒光りに膚合いを見せている。200年もの間、このベコを撫でることによって、健やかなる子育てへの願いと、牛方道中ならぬ今様交通安全の願いを叶えてくれると、詣でる人が後を絶たない。
心願が叶うと、撫ベコの布団は新しくなる。美しいものがものが寄進されて、数多くの布団があったという。
何ともこの撫ベコの、頭を地にすりつけて、憐慰を乞う物悲しげなその姿態を見ていると、「野田塩・ベコの道」の情念が湧いてくるのである。
山岸の阿彌陀堂のあった所は、今墓地になっている。その墓地の隅に道標がある。「右米内道、左野田道」と文字が刻まれて、右は中津川沿いに大志田を通り藪川へ、左はそのまま小本街道である。そこの追分けにあった道標に違いない。昭和3年8月22日、山岸村肝煎夕之丞、願主尾原長右エ門「南無阿弥陀仏」となっている。
いずれこの道標は、三十里もの先の、野田を指して憚らない。途中の地名(岩泉・小本・安家)をのっ越して、野田を指差している。そこに塩を呼ぶ、盛岡の人々の声が、海の遠鳴りのように聞こえてくるように思えてならないのである。
これはほんとの『牛に引かれて善光寺まいり』ならぬ『牛に引かれて千手院まいり』ではあるまいか。