1785(天明5)年、野田代官所の記録によれば、
「塩煮方渡世のものども、煮出し塩、御城下ならびに花巻通りに附参り、雑穀と取り替え附戻り飯料に仕り度候間・・・・・・」
とあり、製塩を盛岡や花巻、また鹿角、毛馬内、雫石、沢内方面まで駄走し、米雑穀等と交換私生活の手段にしていることが分かる。内陸部の農村から「野田ベコ」と呼ばれ親しまれた一群の人々があったのである。
その季節は多く晩秋で、途中いく夜かの塩宿、野宿を重ねての往還であった。
当時の記録の中に、
野田村の清右エ門、佐兵衛
五日町(今の城内) 利兵衛、長八
北御野守 孫之助及侍浜百姓共
支配所塩煮渡世の者共
宇部村の定四郎、関平、茂右エ門、金助、武右エ門
上野田村 佐助
等々の直製塩者、中買人の名が見える。
「野田ベコ」の呼称は、盛岡方面の内陸部の人たちの塩行商に対する総称であり、現在でも古老達から「野田ベコ、塩の道」は聞かれることばである。
1792(寛政4)年野田4カ村の申請書によると、
「当浦より煮出之塩、両鹿角へ附、材木、雑穀と交易致付附、仕付飯料に仕度旨、尤附取之義者三月より五月迄内追々付附申度候間・・・・・・」
とある。
それより崎、1785(天明5)年の秋、野田代官所発行の通過紹介紹文を見ると、牛は1人7匹、馬は4匹を例とし、沼宮内で米・稗・粟・麦・そばと駄替している。それは野田村、五日町、上野田村や宇部村の人たちで、煮出塩・塩附越の区別は、直製塩者と仲買人でもあろうかと思われる。二ヶ月間におよそ300駄に及んでいる。