特定非営利活動法人 野田塩ベコの道

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野田塩の歴史

南部藩が1588(天正16)年、北部沿岸の漁村に対し、新たに作る塩釜一基については、一貫文の税金を課している。今から400年前にことである。1646(生保3)年、南部藩大槌通58、宮古・野田通に43、計101基の釜があり、1683(天和3)年には大槌通58、宮古通28、野田通41、計213基の釜となり、年々増加しているが、塩の生産量はなお不足であり、藩外からの輸入に頼っている。

1850(嘉永3)年の野田の釜場は、

下安家浦犬落 1基 佐兵衛
玉川 2基 三之助、円治
大須賀浦 1基 三十郎
金浜浦 3基 八之介
金浜浦 1基 伊八(三崎野場手伝)

の8基があり、明治の頃も数の変化はあまりない。
明治38年からは専売制となり、明治43年には、すべての製塩は廃止されるのである。
明治14年三陸海岸の製塩状況は、27カ村62浜115釜、年産3万9,496石となっていて、大船渡欠の下、赤崎村の2塩田のほかはすべて直煮製塩であった。
明治43年の製塩廃止後、昭和になって戦争末期、塩の出荷割当があり、野田村では村内消費の3,500kgを自給製塩をした。当時塩一升米二升の時代である。
敗戦により自由背製塩も盛んに行われ、一時中沢、十府ヶ浦、下安家までの海岸に、130あまりの塩釜で賑わった。またヤミ米の流通は全国的なもので、この塩と米とが交渉され、村民の食糧危機を救ったことは、いなめない事実である。昭和24年専売局の指示もあり、塩の価格も暴落したため、戦後の塩釜は次々に姿を消していった。
1日500俵、600俵も生産され、遠く北海道や長野県からも塩買い人がやってきた。

釜は長さ二尺、巾七〜八寸、厚さ二〜三分の鉄板を鋲で接ぎ合わせ、直径一丈二尺、深さ六寸の円形で、かなり強固に作られていた。海水を満たすと相当な重量になるので、中央に三行五本ずつ、両端に三本ずつ二行、計21本の釣金で吊っていた。しかしこのままでは水が漏るので、目張りとしてアワビの殻などを焼いて塗りつけるのである。

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